2018年10月

「自己責任」だから助けなくていい…なんて話はないんだけどな

紛争地に出向いて拘束された人に対して

(拘束されたのは)「自己責任」だ!…と言う人がネットを中心にまだいてるようです

けど…

ネット上で「自己責任だ!」と騒いでる人は

どこまでいっても「匿名の安心感」を前提にしてるところ

TVなどで顔を出して「自己責任だ!」と主張する人はめっきり少なくなって

日本でもようやくそれが「大っぴらに言えなくなってる」…

ということになったのは進歩と言えるでしょう

(この点、顔を出して「自己責任」と言いたげな人も、
「まずは謝罪すべき」というような婉曲な言い方しかできなくなってるようですしね…)

そしてそれは、「自己責任論?」をキチンと批判してきた人たちがもたらした成果であり、

社会が「自己責任論?」の誤りに気づいた結果であります


ぼくはもともと、この「自己責任」という言葉が

いったい何を言いたいのかよくわからないところがありまして

その意味するところは多分、

「因果応報」(≒原因をつくったのは君だから君が悪い)…

というようなもんだと思いますけど、

拘束される人はどこまでいっても「被害者」なので

何で被害者が悪い…ということになるのか、そこから理解不能だったんです


まさか、「被害者が悪い」ということにすると、

被害者を助けなくていいからなのか…なんてことを考えたりするんですけど

そんなことはあり得ませんよね

(だって、犯罪の被害者を助けなくていい…なんてコト、あり得ないじゃないですか)

じゃ、「自己責任論者」って、何が言いたいんでしょうか


政府の言うことを聞かなかった人だから、

酷い目にあっても「ざまぁ」と言いたいのか…

あるいは、拘束された人を助ける義務を自分が課せられたわけでもないのに

なんだか自分に迷惑がかかったかのように錯覚して、

(≒自分が政府になったような気分になって)

とにかく、謝ってもらわんと気がすまん…と思ってるのか、

はたまた、実はこういう行為のできる人がうらやましくて妬いてるのか、

…と、いろいろ考えるんだけども、やっぱりよくわからん…


この点、「自己責任論?」者がいかに考えようとも

(在外)邦人の保護は国の義務なので、どんな屁理屈をこね回そうと

海外で拘束された邦人を見捨ててもいい…ということにはならないところ

もし、そんな政府があったとしたら、そんなの政府じゃないし、国じゃない…でしょう


ちなみに、海外でも「自己責任論?」は明らかに劣勢…というか、

そもそも、そんなコト言ってる人っているの?…という話でありまして↓

例えばBBCの記者が捕まった、その時じゃあ、イギリスの国内世論でどういう事が起きるか、『我々の知る権利を保障する為に、我々が知りたい事を取材しに行ってくれた、その記者が捕まった、解放運動を起こす』、誰一人『行った記者が悪いんだ、放っておけ』なんて言う人は居ない。」

ニュース23 拘束されていたフランス人ジャーナリストが解放され母国に降り立った時の様子。出迎えたのは当時のオランド大統領。 フランス人記者 「リスクをとる記者がいるのは良い事。…バカじゃないかということはない。彼らのおかげでシリアの情報が届く、という考え方。」




(ひとさまのtweetより)

日本でもようやく「自己責任論?」が収束しつつある…というのは

よき兆しであると思っております




※今回の拘束事件では、被害者がジャーナリストということで

それもまた「自己責任論?」が劣勢になった理由の一つかと思いますが

今回の事件の被害者がもし、「何でも(この目で)見てやろう」の精神の発露で

紛争地に飛び込んだ…としても、「自己責任論?」が誤りであることに変わりはありません

「日本は法治国家」だと言うヤツにロクなヤツはいないし、それはそもそも正確ではない

「法治国家」っていう言葉は、「法に基づいて国が運営されている」…

(≒法に基づいて(公)権力が行使されている→特に行政権)…

というような意味であって、これはときに「人治国家」と対比されます


人治国家とは、法に基づかず、人の恣意によって政治がなされる(国)…というもんで

それは「(民主主義が達成できてない)遅れた国」あるいは

「(権力者の意のままになってる)怖い国」に対する評価としてよく用いられます


この点、「法治国家」と「人治国家」では前者の方がいいに決まってる…とは思うものの

それは外形的に「法に基づいてる」からいいんだ…という単純なもんでもなくて

法の内容の適正と法執行の適正があってはじめて

「人治国家より法治国家の方がまし」ということになるはずです

(そやかて、悪法に基づく行政権の行使…とか、適正な法の不適正な執行…なんてことがあれば
 それは実質的には「人治国家」と変わらないからです)


ちなみに、今日の衆議院本会議代表質問においても、

またこの「法治国家」という言葉を使ったやりとりがあって

共産党の代表がアベ首相に対して「行政不服審査法を国が利用するのは法の濫用であって

そんなことが許されるなら日本は法治国家じゃない」というようなことを言ったはず…

(→ここ、ぼく、はっきり聞いたわけじゃないので、あやふやです…って、なんやねん、それ…)


そしてそれは、共産党の代表が指摘する前から行政法の専門家が指摘したことでもあります↓

辺野古、「政府が制度濫用」 国が国に不服申し立て、学者ら批判

朝日 2018年10月30日

辺野古をめぐる動きと論点

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設問題で、沖縄県に対抗するために政府がとった法手続きについて、専門家が批判の声をあげている。国民の権利救済のための制度を濫用(らんよう)している、というのだ。どういうことか。

 ■法の目的は国民救済

 沖縄県は8月、名護市辺野古沿岸の埋め立て承認を撤回。政府は埋め立ての法的根拠を失い、工事は止まった状態が続いている。

 移設を進めたい防衛省は17日、行政不服審査法を使って「撤回」への不服を国土交通相に申し立てた。不服審査と、撤回の効力をいったん止める執行停止の二つの求めだ。

 これに対し、行政法学者らは26日、「審査制度の濫用」「法治国家にもとる」との声明を発表。岡田正則・早大教授は会見で「行政法の常識からみて、異常な使い方だ」と語った。

 国が不服審査を申し立てる事例は、辺野古関連以外はほぼない。2015年、県の埋め立て承認「取り消し」に政府が申し立てた際も、同様の声明が発表され、96人が賛同した。今回は110人に増えた。

 論点となっているのは、「国」が不服を申し立てられるのか、だ。

 行政不服審査法は一般に、社会保障や情報公開などで国や自治体が下した決定に、「市民」や「企業」などが不服があるときに使われる。「国民の権利利益の救済」が法の目的だ。

 防衛省は、埋め立てを行うという点では国も工事の事業者であり、市民と同じように申し立てができると強調する。

 一方、行政法学者は、国が市民と同じように申し立てることはできない、とする。埋め立て手続きを定めた法律が、事業者が国か、民間などそれ以外かを区別し、国には、県の監督を受けないといった「特権」を与えているからだ。

 また「国」が「国」に不服の判断を仰ぐ点も、公正ではないとの批判がある。

 防衛省から申し立てを受けた石井啓一国土交通相は近く判断する見込み。効力停止を認めれば、国は工事を再開できる。

「行政不服審査法」という法律は、その名称からしても

行政権の執行に対して異議がある市民や企業・団体などの「私人」が

行政権に対して申し立てるものです

(この法律はそういう前提でつくられたものであって、それが立法趣旨…だから
 その立法趣旨に反する運用はしてはならないはずです)


にもかかわらず、「国(防衛省)」という「行政権中の行政権」が

「私人のフリして」これまた国である国土交通大臣に異議を申し立てる…というのは

二重の詐欺行為(≒法を濫用するもの)であって、こんな茶番をやってるような国が

どうして「法治国家」と言えようか…という話です

(そやかて、防衛省の異議申し立てを同じ内閣の国土交通大臣が判断する…って
 そんなもん、「訴えた側と判断する側が事実上同一」というまやかしやし…)


なのでここは、共産党の代表の言い分が100%正しい…ということになるはずなのに

答弁に立ったアベ首相は「そのような指摘は当たらない」と

まったく「当たらない」答弁で返してはります


この件のみならず、この国の検察は与党自民党の

「絵に描いたような贈収賄事件や政治資金規正法違反」をまったく立件してくれないし

行政権の行使だって「忖度行政の横行」で、

もはや「法の適正な執行」なんてどこにあんねん…という現状で

この国が「法治国家」だなんて、どの面下げて言えんねん…ということになってますので

結果、「日本は法治国家だ」と胸を張ってるヤツは現実を知らない…か

それとも「法治国家」の意味がわからない…かのどちらかなので

そんなヤツはロクでもない…というボクの「決めつけ」は

アベ首相の答弁とは異なり「当たっている」はず…です




※「平和と福祉」をこよなく大切にする創価学会のみなさんが熱烈に支援する公明党の

国土交通大臣は、速効で防衛省の不服申し立てを認めて

沖縄県の辺野古沖埋め立て撤回処分を(一時)停止させてしまいました

(→こんなん、国が不服申し立てして国が判断するんだから当然の帰結やん)


創価学会のみなさんが崇める池田大作大先生はその著書のなかで

「基地を沖縄に背負わせるとするならば、
 かつて沖縄を本土決戦の“捨て石”にしたことと同様の裏切り」

…と書いてたにもかかわらず、現在、自民党の連立政権を組んで

沖縄に、「アメリカ軍のための新しい広大な基地」をつくることに

積極的に加担してる公明党を支持する…というのは

池田大作大先生を裏切ることになるとぼくは素朴に思うんですけど

その点、どないなんですかね、創価学会員のみなさま…





※今まで国会で何度も「丁寧な説明」とか「謙虚に」という言葉を並べてたアベ首相は

またしても、まったく「当たらない」(すっとぼけた)答弁を繰り返しているようです

新聞ではこの様子を「かみ合わない質疑」とか「質問をかわすアベ首相」なんて書くのですが

国会では、議員の質問に政府が答えるというスタイルになってるので

最初の質問が(まだ聞いてない答弁と)「かみ合う」ことはなく、

もし、質疑が「かみ合わない」のだとしたら、それは「質問が悪い」のではなくて

「(質問とかみ合ってない)答弁が悪い」のですから

それを「かみ合わない質疑」と表現するのは間違いです


そして、質問に(正面から)答えないアベ首相は

質問を「かわしている」のではなくて、単に「質問に答えてない」だけ…なので

それを「質問をかわす」と表現するのも間違いです


だから、これからは

「質問に(正面から)答えないアベ首相」…とか

「質問をはぐらかすアベ首相」…とか

「もしかして、質問がわからないのか、アベ首相」…とか

「もしかして、言葉の意味がわからない可能性も、アベ首相」…とか

そういう「当たっている」表現を使っていただきたいものであります…

(最近、メディアの言葉遣いも「まったく当たらない」んだよね…)

「記者に質問させないと国が壊れる」

以下は、朝日新聞に掲載された小熊英二さんの論評の全文転載です

(抜粋して紹介しようかと思いましたが、知っといた方がいいことが
 あちこちにちらばってるので、全文転載しました…)

(論壇時評)報道の自由 記者の「特権」、質問してこそ 歴史社会学者・小熊英二

朝日 2018年10月25日

 あれは2年前、2016年のことだ。韓国の公営放送局であるMBCのスタッフと、韓国やシベリアを旅した。私がシベリアの収容所跡地と、韓国の元シベリア抑留者を訪ねるという1時間番組を、MBCが制作したからである〈1〉。

 旅の途中ではいろいろな話をする。08年以降の韓国では、保守政権が放送局の社長人事に介入し、政権に批判的な記者やプロデューサーが数多く解雇された。一緒に旅したMBCプロデューサーは、不当解雇に抗議したストの敗北経験などを話しながら、「今の韓国に自由な報道はない」と嘆いていた。

 こうした状況を描写したのが、チェ・スンホ監督の記録映画「共犯者たち」である〈2〉。チェ監督は、12年にMBCを解雇され、独立メディアを設立した名物プロデューサー。この映画では、報道抑圧に迎合した幹部たちや、抗議ストの様子などを映しながら、チェ監督自身が当時のMBC社長や大統領に追いすがってマイクを突きつけ、「記者に質問させないと国が壊れる」と叫んでいる。

 当時の韓国では、警察が約1500人の警察官を動員して、ネット上の世論工作のためにニュースのコメント欄やツイッターに多数の投稿をしていたこともわかっている〈3〉。公営放送局への介入も、こうした言論操作の一環だった。

 ひるがえって日本はどうか。「国境なき記者団」の世界報道自由度ランキングでは16年の韓国は70位。日本はもっと低い72位だ。韓国は政権交代を経て18年に43位になったが、日本は67位である。

 日本の順位は13年から低下がめだち、特定秘密保護法の制定など、安倍政権の姿勢の影響がよく指摘される。だが、それにしても低すぎるという意見も多い。

     *

 なぜ日本はこれほど低いのか。このランキングは、約70の指標による総合評価だ〈4〉。その指標には、政府の監視や脅迫の有無(指標D5)といった、なじみ深いものもある。だが一方、日本ではあまり意識されてこなかったが、日本が低く評価されそうな指標も多い。

 例えば広告主の影響力(D18)、メディアの寡占度(D11)、独立民間メディアを作る困難度(B3)、放送免許認可手続きの透明性(B4)などがある。各国の指標別得点はわからないが、日本は大手メディアの寡占度が高く、これらの指標は低く出そうだ。さらにメディアの言語多様性(C5)、外国人ジャーナリスト認可手続き(C7)、国籍・民族・性別・階層・宗教の障害(C3)など、日本では忘れられがちな指標も多い。

 これを念頭に、香港フェニックステレビ東京支局長である李ミャオ(リミャオ)の体験談を読むと、日本の状況が見えてくる〈5〉。

 李が東京に着任したのは07年。ベテラン外国人記者に「日本で取材するのはとても大変だよ」と言われる官邸で取材したいと官邸記者クラブの幹事社キャップに面会すると、「あなたみたいな外国メディアが、簡単に取材できると思っているのか」とあしらわれた

 私も外国や日本のフリー記者から類似の話を聞いた。民主党政権下で官邸や官庁の会見が記者クラブ外のメディアや記者にも開放されたが、現政権では事実上の制限がなされているという〈6〉。

 李は何とか官邸記者クラブに加入できたが、日本の官邸クラブの風習に違和感を持つ。「質問できるのにしない日本の記者が多いことを、いつも不思議に感じている。私が質問すると、びっくりしたような表情をする記者も時々いる」。大臣の取材に行くと、官庁の広報から「質問はできません」「あなたには場慣れする必要がある」と告げられる麻生太郎財務相に経済問題を質問すると「(日本は)中国と違って何でも言える国ですから、いい国なんです」と無関係な返答をされる。それでも李は、「馬鹿にされようと、まともな答えが返ってくるまで私は繰り返し質問した」という。

 李はいわゆる「反日的」な記者ではない。中国で「日本が宮古島でミサイルを配備」という誤報が出た時は、誤りを指摘し、中国のネット右翼から「売国奴」「死ね」などと罵倒された。それでも、「自国の誤った報道を知りながら放置することも、事実を伝える仕事を半分放棄したのと同じ」というのが信条だ。

     *

 李の経験は、日本の「報道の自由」の性格を教えてくれる。大手メディアの正社員になり、記者クラブに所属し、外国人や女性ではなく、大臣や官庁が嫌がる質問をしなければ、「報道の自由」を享受しやすいのだ。だがこうした「自由」は、国際的には高く評価されない。

 またこうした大手報道機関の排他的な「特権」は、メディア不信の温床になりやすい。報道に限らず、技能や専門知識のある者が他と違った地位に就くのは、役割分担として正当化できる。しかし責務を果たさずに地位に安住していたら、既得権にしか映らないだろう。

 李はいう。「私はこの平和な国・日本で質問し、取材できるありがたみを感じている。だが、日本の記者はそれをどれだけ感じているだろうか。もっと質問すべきだと思う」。日本の報道が国内外で評価されるには、報道する側が自分の特別な地位を自覚するとともに、その地位にみあう責務を果たすしかない。

 なお昨年の韓国の政権交代後、MBCでは社長弾劾(だんがい)のストが起き、かつて社を追われたチェ監督が新社長に就任した。私が一緒に旅したプロデューサーも、いまは元気に新番組を作っている。

     *

〈1〉詳しくは小熊英二「『父と私』」(世界2016年10月号)

〈2〉チェ・スンホ監督「共犯者たち」(17年)、18年12月1日より日本上映。紹介は岡本有佳「公共放送を取り戻すための韓国放送人と市民たちの抵抗に学ぶ」(世界6月号)

〈3〉「李明博政権時の警察 1500人動員しネット世論を操作=韓国」(聯合ニュース10月15日、http://japanese.yonhapnews.co.kr/society/2018/10/15/0800000000AJP20181015002400882.HTML別ウインドウで開きます)

〈4〉REPORTERS WITHOUT BORDERS「2018 WORLD PRESS FREEDOM INDEX, Detailed methodology」(https://rsf.org/en/detailed-methodology別ウインドウで開きます)

〈5〉李ミャオ「人間の尊厳伝える災害取材 好奇心高め、質問する力を」(Journalism10月号)

〈6〉小塚かおる「当たり前が『異常』になってしまう政治取材現場」(独立メディア塾18年1月号、http://mediajuku.com/?p=10375別ウインドウで開きます)

     ◇

 おぐま・えいじ 慶応大学教授。1962年生まれ。著書は『生きて帰ってきた男』『決定版 日本という国』『〈民主〉と〈愛国〉』など。

この論評のなかで紹介されてるエピソードに出てくるのは

いわゆる「(日本よりいろんなことが進んでる)西欧」の記者ではなくて

韓国の公営放送局のスタッフであったり、香港のTV局の記者だったりします


日本では、韓国や香港は(いろんな面で)「日本よりも自由がない」…

というイメージが一般的だと思います

(なので、それは「報道の自由度」という点でも同じでしょう)


そして、実際に、韓国では前々政権時代から(公営)放送への政権介入が強まって

報道の自由が危機にさらされ、多くのジャーナリストがその職を追われた…し

香港もまた、「一国二制度」とはいえ、中国の影響力が年々強まってきて

報道の自由が危機にさらされていると言えます


しかしながら、それを「問題だ」と認識する感覚を

ジャーナリストやメディア関係者が広く共有している…という点は

日本にはあまり見られないものであり、

仮にそれを「メディア当事者の報道の自由に対する感覚度」と表現するならば

「報道の自由度」とはまた別の順位が付されることでしょう


上記の論評で紹介されているエピソードのなかでぼくが一番印象的だったのは

韓国の公営放送のスタッフが自らが属する会社の社長や大統領にマイクを向けて

「記者に質問させないと国が壊れる!」と叫んだ…というものです


そう…

記者に質問させないような国は壊れる…(というか壊れてる…)

(だって、「記者に質問させない」なんてのは、
「報道の自由がない」のといっしょですから
 そんな国は(…というか政府は)「壊れてる」と表現する他ありません)


この点、日本はアソウくんが言う通り、

「(日本は)中国と違って何でも言える国ですから、いい国」…だそうですが

この場面での「何でも言える」ということの具体的な中身は

「記者が何でも質問できる」ということだと思うところ

じゃ、日本ではホントに「記者が(政治家に対して)何でも質問してる」のか…と言えば

そんなことはありません

それどころか、この論評のなかで紹介されている通り、

日本の記者クラブの掟は「何でも質問しないこと」のようなので

日本は「何でも質問できる(いい)国」のはず…なのに、

記者は「何でも質問してくれない」ということになっていて

その結果は「何も言えない国」とほぼいっしょ…ということになってます


韓国の公営放送のスタッフは「記者に質問させないと国が壊れる!」と叫んだのでありますが

記者が(建前上は)何でも質問できるはず…なのに

「記者が質問してくれない国」もまた壊れるんじゃないか…と

ぼくは昨今の日本のメディア状況を見ていて思います




※このエントリーを書いてたら、ちょうどタイムリーにこんな記事が出てました…↓

「みなさまの声」より「官邸の声」 NHK報道局長の“忖度”放送
(社会週刊新潮 2018年4月19日号掲載)

この記事には、「安倍晋三総理の懐刀で影の総理とも呼ばれる今井尚哉秘書官」の意向を受けて

「(NHK)政治部出身の小池英夫報道局長」が

「官邸の意向に沿わないネタは潰し、報じられたニュースに抗議が入れば現場を徹底的に叱責」し

それがNHK内部で「Kアラート」と呼ばれてる…

というようなことが書かれてます

(政権の意向を忖度したNHKの内部検閲は以前から有名だったんだけど
 今はそれが思いっきり露骨になってきてるようです)


公営放送が政権から直接の圧力を受け、その結果、

「何でも質問するようなことはしない」は当然のこととして

「何でも放送するようなこともしない」(≒政府の機嫌を損ねないように編集する)…

というのが日本の現状であり

それに対してメディア関係者がどのくらい危機感を抱いてるのか…を考えたとき

記者クラブに入ってるような大手メディアの関係者たちに限って言えば

「そんなの、何が問題なの? ボクたち、ずっとそうしてやってきたんだから…」

というようなもんではないか…と思うところです


さらに、シリアで拘束されたフリーのジャーナリストが解放された後で

「(拘束した側が悪いんじゃなくて)拘束されたオマエが悪い」…という、

倒錯した「自己責任論?」を振りかざす人がまだ少なくないことをみると

「政府に盾突くような振る舞いをしないこと」が報道の基本姿勢…だと

少なくない市民も考えてる…ということになるので

日本社会の「報道の自由に対する感覚度」もまた

それほど高いとは思えないところです

(…ということを考えたのは、このtweetを見たからなのだ↓)

だいたいね、政府が「危険だから行くな」に、「そうですよねー、はい、わかりました」とのこのこ従うジャーナリストが、権力の監視なんてまともにできる訳ないじゃないか。

ジャーナリストが政府の言うことを素直に聞く…なんてことならば

それは、ジャーナリズムの精神を棄ててる「ジャーナリスト詐称者」というだけのことで

ジャーナリストではあり得ません…

悲しき先祖帰り

昨日の新聞に、少し前にお亡くなりになった俳優の菅井きんさんのことが出てました

菅井きんさんと言えば、時代劇ドラマのヒットシリーズだった番組の役で

「婿どの!」というセリフが有名ですけど

ぼくが菅井さんで真っ先に思い出すのは、

遠い昔の青春ドラマ『飛び出せ青春』の寮母役でした


そのドラマでの菅井さんの役は、レギュラーとはいえ、いわゆる「端役」であって

決してドラマの本筋には関係のない小さい役…だったんですけども

一回だけ、菅井さん演じる寮母が物語の主人公をしたことがあって

ぼくはその回を今でもよく覚えてます


それは、菅井さん演じる寮母が学校の休みを前にして

子どもの家に遊びに行くことを生徒達に自慢したところ

子どもに冷たくあしらわれて寮に帰ってくる…というようなあらすじで

最初は「子ども自慢」をしていた寮母に反発していた生徒達が

子どもに冷たくされた菅井さん演じる寮母に同情して温かく接する…

というような内容だったと思います(…って、全然、よく覚えてないがな…)


そして、菅井さんと言えば、映画『どですかでん』の主人公の母親役も忘れられません

ぼくは昔から、『どですかでん』という意味不明のタイトルがついた映画が気になって仕方がなく

おまけにその「意味不明タイトル映画」が、あの黒澤明監督の作品…ということで

これは一回観なあかんな…ということで、昔、ビデオを借りてみたことがありました


この作品で描かれていたのは、どうしようもない「貧困」であり

それは最後まで何の解決もしないまま、物語は救いなく終わっていく…というものでした

(なので、この作品は観た後で(前向きな意味で)感動する…というような作品ではありません
 ちなみに、この作品では、主人公の少年を『飛び出せ青春』の学生側の主人公と言ってもいい、
 頭師佳孝さんが演じていたので、なんだか両者には縁がありますね)


『どですかでん』で描かれていた背景は、ぼくが見ても古くて

若い人がみたら古すぎて、それが日本だとは思えないくらい…だと思いますが

この作品ができたのは1970年だから、ぼくが小学校低学年のときだったので

そういう点では、それほど古くはなかったのでした

(…と言っても、今からもう50年くらい前のことだから、「古い」ですかね…)


そういえば、フォーク歌手岡林信康が

貧困の悲しさを歌った『チューリップのアップリケ』を発表したのも1969年のことで、

♪あの時、君は、若かった〜♪…じゃなくて

あのとき、日本は貧しかった…のでした


日本は貧しかった…というのは、なんだか漠然としているし

1960年代には既に「高度経済成長」なるものが始まっていたから

1970年前後といえば、それなりに景気はよかった…といえなくもありません


けれども、当時の日本には「貧困」が誰の目にも見える形であって

「貧困」(これを主観的に表現すると「貧乏」)は他人事ではなく自分事…である人が

たくさんいたのです


けれども、その後、1980年代に入ると、いわゆる「バブル景気」が始まって

TVでも「貧困」(≒貧乏)を笑うような風潮さえ出てきました

(ぼくは、タモリの『笑っていとも』というバラエティの中で
 あるタレントが茶化すように『貧乏が悪いんや、みんな貧乏のせいや』と言った後で
 それをみんなで笑ったシーンを今でも鮮明に覚えています)


そう…1980年代に入った頃から、

日本では「貧困」が忘れ去られてしまったような感じになってしまいましたが

それは「貧乏」を他人事だと感じる人が増えただけのことで

「貧困」そのものがなくなったのではありませんでした


でも、多くの人が「貧乏」を他人事だと感じることができたのは

それなりに「お金が回ってきたから」であって、

当時は景気のよさも手伝って、「富の再分配」なるものが

今よりはうまく回っていた…といえるでしょう


そして、2018年の今、日本では再び「貧困」が大きな問題になって

それは要するに「貧乏」が自分事になった人が増えてきた…ということなんだけども

いくら不景気とはいえ(…と言いつつ、政府はずーーーーっと「景気はよい」と言ってんだけど)

またもや日本で「貧困」が前面に出てくる…というのは

あまりにも悲しすぎる先祖帰り…だと思うのです


そして、その「悲しすぎる先祖帰り」がなぜ生じているのか…と言えば

それは不景気のせい…と言ってしまえばそれまで…ではなくて

実は、不景気のせい…でお終いにはできない話でありまして

「富の再分配」がうまくいってないこと(=富の偏在)が

2018年の日本にまたぞろ「貧困」が表に出てきた原因といえるでしょう

「競争から協調へ」とは、よく考えついたもんだ

アベちゃん、まだ中国にいてるんですかね…?

(…って、もうとうに帰国して、今日はインドの首相と別荘でご飯いっしょに食べとるわ!)

…という、つまらん前フリは早々に切り上げて…


アベちゃん、中国を訪問して「競争から協調へ」なんてことをゆうてましたよね

「競争から協調へ」…

言葉だけを聞くと、なんだか良きことのような印象を受けてしまいがち…なんだけど

ボクはこの言葉を聞いて「これはもう、白旗宣言やな…」と思ったんです


というのも、これを正確に言い換えるならば

「もう、張り合うのは諦めました。これからは仲良くしてください」宣言であり

その「仲良くしてください」の具体的な内容は

中国の外交政策の要である「一帯一路」の仲間に入れてください

中国の海外進出案件に一口かませてください…ってことだと思うからです


でも、ボクはそういう路線が間違ってるとは思ってなくて

そうなるのも致し方ないと思ってるんです

そやかて、例えば、「アメリカと張り合う」(≒アメリカと競争する)…

なんてコトを真剣に考えてる人がいたならば、

その現実性のなさにボクも多少は呆れるところ、

今や中国はアメリカとならぶ世界の超大国となりつつあるのだから

そんな国と張り合うこともまた現実的でないと思うからです


アベちゃんたち自民党は、たしか

「自由と繁栄の弧」とかいう「中国包囲網」を唱えてたはず…で

(↑みなさん、覚えてますか?)

そのために、いろんな国にいってお金をばらまいてたこともあったはず…なんだけど

結局、中国との「競争を諦めて協調するしかない」という結果に至ったわけでして

今、その「自由と繁栄の弧」の一員になるはずだったインドの首相が来日してて

アベちゃんが別荘で夕食をごちそうしてる最中…とはいえ

そんなことでインドの態度が変わるわけもなく

今、「日本を取るか、中国を取るか」と聞かれて

「日本を取ります」と応えてくれる国はまずないだろうと思うところです





※ボクね、アベちゃんたちの中国訪問時のニュースをほんの少しだけ見てたんですけどね

なんか、TVの映像ではアベちゃんの横にいるはずの「昭恵夫人」を

はずそうとしてて、あんまり昭恵さんを映してくれませんでしたわ

(なんか、妙な忖度するよね…)

ほな、どんな映像を流してくれたのか…と言えば

中国の習主席と会談してたときのアベちゃんアップ…

(+横に座ってた河野太郎くんの思いっきりカメラ目線)…とか

経済会合での世耕くんの得意げな演説…とかだったりしたんだけども

(でも、世耕くんのスピーチスタイルもなんだか「振り付け通り」に映るんだよな…)

偶然目にしたその3人に共通するコトはな〜んだ?

(…って、いきなりクイズかい!)


その答えは…「全員、世襲」…

かたや、中国もトップの習主席も世襲組の「太子党」…


こういう構図を見てると、日本が、そして、中国が

どない見てもうまく回ってない理由がはっきりくっきりわかってくるわけでして

能力ではなくて生まれで政治指導者の地位が手に入るような国が

うまく回るわけがない…というのは、今までの歴史が証明することでありましょう

(+アベちゃんの留守を守ってたのが、副総理のアソウくん…って
 なんか、冗談キツいよな…)