トラウマってゆうたら、それは個人のもの…のはずやんね
(そんなこと、心理学者でなくてもごく当たり前にわかることやと思うで…)
なので、PTSDかてもちろん、生身の人間がなる疾患なわけで
組織がトラウマを抱えてる…とか、PTSDにかかってる…なんてゆう話はないはずやねん
ところが…
なぜかメディアが決まって「外務省(あるいは日本政府)のトラウマ」と表現する事柄があって
ぼくはそういう表現に出くわすたんびに、なんで組織がトラウマを抱えんねん!…とツッコんでるんです
ちょっと例を挙げてみましょか…
(現場から考える 安全保障法制:上) (朝日:2015年3月30日)
〜湾岸戦争で日本は多国籍軍に130億ドルもの大金を出し、停戦後には機雷除去もした。だが米国などの国際社会からは「少なすぎる、遅すぎる」と批判された。
当時、安全保障に関わった日本政府関係者たちは強い衝撃を受けた。それがいまに至るまで政府内の「トラウマ」になっている。〜
湾岸戦争のすぐ後に衆院に初当選した首相は、このトラウマを共有している。06年の著書「美しい国へ」では「お金の援助だけでは世界に評価されない」と主張した。〜
「政府(内)のトラウマ」って、いったい何なんですかね
(政府という「組織」がトラウマを抱えてる…って、そんなコトあるんですか?)
それとも、政府内にいる人間の多くが(同じ)トラウマを抱えてたら
それは「政府のトラウマ」というコトになってまうんですか
(そんなアホな…)
それにね、「トラウマ」っていう言葉は言うまでもなく「否定的な言葉」なので
ある事柄が「トラウマ」になってる…なんてこと言われると、
そう、大変だったね、じゃ、今度からは、そんなトラウマを抱えないようにしないとね…ということになって
「政府のトラウマ」に同情し、今後はそういうことがないように…、つまり
今後はお金だけじゃなくて「人も」出さないとね…なんていう反応を引き出すことに繋がるので
ぼくはこういう(デタラメな)表現をメディアが不用意に(あるいは意図的に)用いることには
前から強烈に引っかかってるんです
このように、本来はあくまでも生身の人間(個人)が抱えるトラウマという症状を
組織(集団)に対して安易に用いるのは、とても大ざっぱ(デタラメ)かつ危険なことなので
今後はこういう日本語の誤った表現を使用しないで頂きたいと、
ぼくはメディアに強く要望したいですわ
(そやかて、例えば原発事故のあった「福島のトラウマ」とか、
原爆を投下された「広島のトラウマ」「長崎のトラウマ」なんていう表現には
お目にかかったことないですやん…)
※同種のトラウマをいかにたくさんの人が共有しようと、
それは「組織のトラウマ」になるわけでもないし「地域のトラウマ」になるわけでもない…とは思うんですが
百歩譲って、仮に、組織にもトラウマがある…と言うのであれば
その「トラウマの妥当性」が吟味されるべきだと思います
まず、日本が湾岸戦争時に出した「130億ドル」という金額は「少ない」こともないし
国の最高法規である憲法の制約によって海外で武力行使できないから自衛隊は出せまへん…というのは
当たり前のことなので、それに対してイチャモンをつけてくる方が、そもそもおかしいんです
(そういうコトを責めるのは「内政干渉」そのものでっせ…)
だから、こういうイチャモンには、日本政府お得意の言葉である「毅然とした態度」で
はねつけてもろたらええわけですわ
(トラウマになってる場合やないっちゅうねん!)
それに、日本政府がショックを受けたのは、言うまでもなく
「世界から」言われたのではなく「アメリカから言われたから」であるところ
(そやかて、アメリカ以外の国から何かを言われても、日本政府は気にしませんやん…)
・「アメリカの言うことを勝手に過大に受け止める」
・「アメリカの機嫌を損ねるとたいへんなことになると思い込んでる」
・「アメリカの言うことを聞くのが日本政府の仕事だと錯覚してる」
…という日本政府の「アメリカ一辺倒症候群」(生理的アメリカ従属症候群)こそが根本的な問題なので、
日本政府のトラウマを治すには、こういう「日本政府の病気」を治すことが不可欠であるとぼくは思います